第5話: sid 天桜史遠




天 鏡 楼


物があふれ表面上豊かになったこの国で、何が幸せなのかわからなくなった人々が集まる街――東京。

裏切られることや、裏切ること。
この街では日常茶飯事だと誰もが知っている。

まとわりつく人の思念。気を休めることさえ許されず、絶えず襲い来る緊張感。
それらを決して心地良いとは思わないが、それでも史遠はこの街に"帰って来た"と感じる。
そう感じてしまうのは己の罪の意識からだろうか、と彼女は自嘲する。
罪悪感などこの街には路傍の石のごとく、ごく自然に存在しているのだから。

――私には、まだ帰る場所がある。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 帰りついた史遠を待っていたのは、呆れた顔をした上司の小言だった。
「・・・ただいま帰りました」
「おう。ったく・・・ウチの警部補殿は何度言ったら解ってくれるんだ?」
「連絡は・・・いれました。」
間髪いれずに返答する史遠に、真神は呆れたように、コレさえなきゃな、と大きな溜息をついてみせる。
彼が咎めているのは、史遠をはじめとする彼の部下達の単独行動について。 特犯では、調査をはじめとする全ての仕事でペアで行動しなければならない、という規定がある。 それはパートナーのどちらかに“何か”が起こった場合、本部へ連絡をいれる“誰か”が必要だからだ。

多くの犠牲をださない為に必要な、守る為ではなく見捨てる為の規則。

それが、特殊犯罪取締課に科せられた唯一無二の規則だった。
 無論、その規則に反抗する者もいるわけで・・・警部という地位にいる真神にとって、その規則は悩みの種以外の何者でもなかった。
「・・・あの、真神警部。五十嵐さん・・・帰って来ていないんですか?」
「んぁ?ああ。電話連絡だけで、本人さんは見てないな。いつもの店よって来なかったのか。」
 いつもの店、とは路地裏にある一軒の喫茶店のことである。 客同士干渉しないという店のルール、いわば暗黙のルールだが、それを気に入ってその場所をよく待ち合わせ場所として使っていたのだ。
「ええ、戻っているとおっしゃっていたので・・・。」
といいながら、スカートのポケットから携帯を取り出し慣れた手つきで電話をかける。 無機質なコール音に続き聞こえてくるのは感情のないアナウンス。
『・・・・電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため・・・おかけになった・・・』
最悪の光景が彼女の脳裏をよぎる。史遠は、それを否定するかのようにかぶりをふった。
その姿を目にとめた真神は言う。
「天桜警部補。説教は、二人そろってだ。欠員出してみろ、クビだ、クビ。」
自らの手で、首を切るような動作をした後、はやく行けといわんばかりに史遠に背を向ける。

 踵を返し走り出した彼女を横目で見やると、彼は呟いた。
 今引き合わせるのは酷だったか、と。


 真神に見送られるようにして、部屋を出た史遠の心中は穏やかではなかった。あのアナウンスが耳の奥に張り付いて離れなかったからだ。
 一度浮かんだ不安は、そう簡単に拭い去ることは出来なかった。それは、根を張る植物のように徐々に侵食していく。 それは彼女の行動にもあらわれていた。署をはなれる彼女は、普段では想像もつかないほどに足早に、そして小走りになっていた。
「どうか無事でいてください……五十嵐さん…!」

 ―――もう、誰も死なせない。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「あーあ。クリーニングは間に合わないし、ほんっと、世の中おもしろくないったらっ!」
心底飽々したような表情を張り付けて、一姫は言う。
「なんか面白いことないもんかねぇ…と?」
ふと、目をやった交差点の歩行者信号のライトが点滅し、赤色に変わる。そこへ突っ込んでくる、黒塗りのベンツ。すさまじい轟音。上がる悲鳴。
不変のように思われる日常も、一つが欠ける事でたちまち非日常と変わる。そう、この光景のように。
ただ一姫はそれを特に気に留める様子もなく、視線を戻し歩みだした。その横をすり抜けていく、黒髪の少女。その少女は、一姫に気づくこともなく走り去った。
「・・・面白いもの、みっけ。」
一姫は悪戯を思いついた子供のように無邪気な表情を見せる。

それは、天使の微笑みか。それとも悪魔の微笑みか。
人は、いつからか破滅と共存するようになった。





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